「魔法先生ネギま!」論(と今週の感想)

  • はじめに

さて、今週のネギま!は第1話・第96話についで重要な話でした。そこで、僕なりのネギま!論をちょっと書いてみたいと思います。ネギま!論を書く人はネット上にはごろごろいるので気が引けるのですが、「わずかな勇気」を振り絞って少し書いてみようと思います。

  • 137時間目の感想

まず、今週の感想。茶々丸の姉茶々丸よりスペックは低いのか?)やネギに恋する綾瀬夕映などの細かい見どころもあったのですが、何はともあれエヴァ様。


いっしょにお風呂に入ってエロい言葉で誘われて二の腕をぺろぺろされて吸われたあげくにディナーの時間を過ごして騎乗位でディープキスですよ。


ネギがうらやましい。

  • だれもが善であり悪である

では本題。今週のエヴァ様の説教の中に「安易に善悪を決めつけるな」というものがありました。これはネギま!の作品世界では実に徹底されています。例えば、78話の四葉五月のセリフに、「誰かを恨んだり何かから逃げたりして手に入れた力でも… それは立派なあなたの力ですネギ先生!」というものがありましたが、このセリフなども、無意識ながら自らを「善」としたがるネギ(=読者)への警鐘として捉えることが出来るでしょう。

  • 「殺し」の無い世界

さて、上記と関係しますが、この作品は「殺し」を忌避したがる傾向にあると思います。これだけストーリーが重厚なのに、「死んだ」とはっきり判明しているのは龍宮真名の元恋人くらいで、はっきりと「人殺しをした」と発言しているのはエヴァ様くらいではないでしょうか。(見落としがあったらすみません。)フェイト・天ヶ崎千草・ヘルマンと言った一見極悪な敵キャラも、ちょっと過剰なくらい「殺しはしない」と発言しています(というか赤松先生がさせています)。(注・フェイト戦でネギが死にかけたのはフェイトの想定外の出来事だと解釈し、ヘルマン戦の70話ラストの描写は、スライムの発言からヘルマンがネギの手足の石化のみを狙ったと捉えました)

  • 「わずかな勇気」とは「自分が傷つく/他人を傷つける勇気」では無いか?

さて、「だれもが善であり悪である」および「殺し」の無い世界と聞いて思い当たるものは何か。僕は、それはこの現実世界だと思う。そしてこの世界で生きるために必要なもの。それは「わずかな勇気」である。では「わずかな勇気」とは何か。96話のエヴァ様のセリフをもう一度読み返していただきたい。「恐れていては何もできん」「あらゆる局面において重要となるのは 不安定な勝算に賭け不確定な未来へと自らを投げ込める自己への信頼・一足の内面的跳躍」「つまり『わずかな勇気だ』」とある。そして今週137時間目のエヴァ様のセリフ。明らかに「一足の内面的跳躍」を受け、「一歩を踏み出した者が無傷でいられると思うなよ?」「キレイであろうとするな」「他者を傷つけ自らも傷つき」「泥にまみれても尚 前へと進む者であれ」「それでこそわが弟子だ」とネギ(=読者)に訴えかけてきます。


ここから察するに、「わずかな勇気」とは「自分が傷つく/他人を傷つける勇気(およびそれでも前に進む勇気)」であると思う。そして、「わずかな勇気」はファンタジーの世界ではなく、この現実世界で我々が持ち得ることができるものである。ここがネギま!の凄いところで、他の少年マンガが往々にして、「克己心あふれた超人的な主人公たちが、なにやら現実世界とは無縁なところで冒険をする」のに対して、ネギま!においては、「己を克服できないことを悩むネギ(=読者)が、いかにして現実に根をおろして生きていくか」というところに物語の主軸が据えられている。

  • 世界一説教臭いマンガ

この点から考えて、ネギま!世界一説教臭いマンガだと思う。だがこの説教臭さこそが本作の魅力であり、他の少年マンガが持ちえない素晴らしさであると私は思う。