ハルヒからライトノベルのアニメ化について考える

  • はじめに

さて、あんまりアニメは見ない私ですが、大成功の「涼宮ハルヒの憂鬱」アニメについて少し書き殴っておきます。というのも、ハルヒの「時系列をバラバラにする」「1巻の内容を6回に分割して描く」という斬新な手法が、メディアミックスの可能性を拡げたと思うからです。

涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は、当然ながらはじめからシリーズ化が決まっていたものではなく、谷川流先生がスニーカー大賞に応募した作品である。よって、一巻は練りに練られ、その内容はシリーズ化されて以降の作品よりもよくできていると思う。(もちろん、「消失」などその後もこのシリーズからは傑作が生まれているわけであるが。)今回、ハルヒのアニメは一巻の内容になんと6回もの放送時間を割いた。放送当時7巻まで発売していたこの作品であるが、なるべく多くのエピソードを紹介しようと欲張らなかったのは正解であると思う。

  • 「デレ」のインフレを防いだ

さて、ヒロインが「ツンデレ」のキャラの作品の場合、はじめは「ツンツン」、後は「デレデレ」状態にならないとオタクは見ないわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズ全体を通してみると、やはり後半の巻になればなるほど、各キャラの「デレ」は露骨になってくる。(少々の「デレ」では耐性がついて萌えれなくなる。)しかし、これは個人的嗜好かもしれないのだが、僕は一番強力な「デレ」はインフレ前の「デレ」、キャラの「ツン」状態がはじめて解けた時に露見する「デレ」だと思うのだ。(ハルヒで言うなら、駅前散策でキョンと一緒になれず機嫌を損ねるあたりや、閉鎖空間でキョンの袖をつかむあたり。)そういったインフレ前の「デレ」を大切に扱ったところが、この作品の成功のひとつの原因ではないかと僕は考えている。また、時系列をバラバラにしたことも一因だろう。ストーリーと共にクレッシェンド的に「デレ」が増えていくのではなく、突然とてつもない強度の「デレ」がきたと思えば、インフレ前のほのかな「デレ」がきたりという、そういった意外性が既存の萌えアニメに食傷気味の方に受けたのかもしれない。

ハルヒと同じくライトノベル原作、しかもイラストをいとうのいぢさんが担当している「灼眼のシャナ」のアニメとの比較も少ししてみたい。両者は、アニメ放送により原作の売上が倍増した、という点においては大成功だったといえるだろうが、シャナのアニメは少し物足りないものであった。まず、原作一巻のラストを骨抜きにしてしまったこと。これは、原作一巻の決め技「天破壌砕」をストーリーのラストに持ってきてしまったことによるが、先ほども指摘したように、本来シリーズ物のライトノベルは一巻の出来がものすごくいいのだ。そこを骨抜きにされて、僕はかなり見る気を削がれてしまった。次に、話を無理やり終わらすためにオリジナルストーリーを採用してしまったこと。シャナの原作はまだ完結しておらず、これを無理に24話に収めるためには仕方の無いことだったのかもしれないが、あざとい萌えシーンで穴埋めするのは正直いただけなかった。三つ目は、シャナという作品の性質上これも仕方のないことなのだが、なるべく多くのキャラを出そうとしてしまったこと。ハルヒと違い、シャナは毎回来襲してくる敵と戦うという物語なので、数多くの敵キャラが存在するのである。これらを全て登場させようとして、内容が少し薄っぺらになってしまった感は否めない。しかしこれには良い点もある。声優の配役は非常に良かったので、原作を読む時にキャラが話すイメージがわきやすくなったのである。だが逆を言うなれば、原作の売上のために、アニメを単独の作品というよりは宣伝材料として使ったとも言える。


これらの点を、ハルヒのアニメは全てクリアしている。原作一巻のラストを、なんと最終話に配置した。オリジナルストーリーは一話で使用したのみで、原作を丁寧にアニメ化した。無理にたくさんの話をアニメ化しようとせず、話を絞った。そして、ハルヒのアニメは原作の宣伝材料を越え、一つの作品としてもすばらしいものになったのである。

  • おわりに

ほとんどアニメを見ていない僕があまり偉そうなことも言えないわけですが、興奮のあまりついだらだらと書いてしまいました。(「それは違うぞ」なんて思った方、たたかないでくださいね。コメント欄にて反論などどうぞ。)